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鳥凧師群像 <1> <2>  <3>準備中





鳥凧師群像 <1>
新潟鳥凧の会創立10周年記念誌より (著者 : 新潟鳥凧の会 発行 : 鳥凧工房/風児 新潟市寺山 2-19-2)

■鳥凧研究生誕生!!
 1977年6月、新潟市勤労青少年ホームセンターの二階で、約20名が「柳細工による鳥凧製作」の手ほどきを受けていた。二日間で「かもめ」の製作である。初めて見る柳細工による実物大の鳥凧は驚きであった。
 図面に合わせ柳をロウソクの火であぶり、ボンドと糸で結び骨組みを作っていく。主軸は柳、細部は竹カゴを使用。くちばしはバルサを削る。なんとか鳥の形になった。そして次は紙貼り。前日から始まった講習、紙貼りが終わり完成したのは夕方5時になろうとしていた。
 完成した人から日和山海岸で揚げる。紙の乾くのを待たずに海岸に走り出す人もいた。糸目は一本。遠い昔、子供の頃、糸目を考え、いかにして揚げるか興奮した日々を思い出す。
 海岸は無風に近かった。風を待つ。6時近く、海風が吹き始めた。糸を引くと、一羽、二羽とあがり始めた。じっくり二日間もかけて完成させた「かもめ」。ためらう人もいたが、三羽、四羽、五羽と舞い上がる姿に拍手がわく。初飛行は無事に終了し、お互いに喜びあった。この中にいたのが、荒井・石山・市川であった。
 その後、三人が再び会ったのは鳥凧製作の講習から一週間後。「鳥凧研究会を作り、鳥凧製作をしないか?」と、後藤修平氏の呼び掛けで集まってきていた。そして、ここに《鳥凧研究会》が誕生したのである。

 後藤修平氏を中心とした《鳥凧研究会》は、鳥凧制作と各種イヴェントでのデモンストレーションを中心に活動の輪を広げていく。


■鳥凧 海を越える!!
 1982年6月12日。オランダ親善使節団としてオランダの地 スケフェニンゲン市で行われた「第3回国際親善凧あげ祭り」に、日本から日本の凧の会 茂出木会長ら21名が参加。その中に《鳥凧研究会》として、荒井・石山・市川の3人も加わっていた。
 参加国は、地元オランダ・イギリス・アメリカ・フランス・ベルギー・ドイツ・日本の七カ国。日本チームは、日本の凧の会「江戸凧」、白根「大凧」、そして我が「鳥凧」チーム。
 北極から吹きおろす北海の風は強い。空は澄んで紺碧に近く、雲は真っ白で目にまぶしい。この季節は夜が短く日没は11時。日の出は3時。白夜である。
 欧州の凧は自由なデザインで制作され、立体的なものが主流をなしている。色彩は豊かでシンプル。太陽光を通して、より発色が鮮明である。コメディ凧によるマンリフト、巨大パラフォイル、スポーツカイト等、ショー化した大会に数十万の観客は沸いた。
 「鳥凧」も欧州の凧に負けじと見事に舞った。好奇心の強いオランダのカモメが、もの言わぬ仲間に興奮していた。にわとり・鶴も見事に飛翔、観客から拍手喝采の一場面も・・・ 
 その後、ベルギーのクノッヶビーチの空にも美しく舞い揚げ、地元の子供たちやカモメたちとも遊んだ。
 その後、海外へ度々出かけるほどになるとは、思ってもいなかった。そして、オランダの凧愛好家 ミッシェルさんとノップさんとも友達になり、再会したのは12年後の白根の凧フェスティバルであった。

 1988年8月15日アメリカ遠征。第7回ワシントン カイト フェスティバルに参加。通し番号を染め抜いた鳥凧「ブルーエンジェル」や「カモメ」「鶴」「アメリカンイーグル」を持参。「鳥凧」は、ワシントンカイト協会会報に「最高の作品」と絶賛された。ロングビーチ、シアトル、カナダのヴィクトリアとハードスケジュールをこなす。「ブルーエンジェル」の編隊飛翔は拍手喝采。23日、帰国。

 ●アメリカ遠征より帰国後、《鳥凧研究会》は《新潟凧の会》と名を改め、発展的に再出発する。
 ●1988年10月6日、《新潟凧の会》は《新潟鳥凧の会》と改称、新たな出発の日となる。

 国内外問わず各地の大会でのデモンストレーション、科学としての「鳥凧」紹介、凧作り教室、各種イヴェント参加等、その活動は年々拡大・飛躍し続けることとなる。


■新潟鳥凧の会 関東支部誕生!!
 浅草の路地の小さな店で、数枚の凧を見つけた。そして、手にしたのが「カモメ」。店主は「後藤修平氏の本で作ったのだ」と嬉しそうに答えた。
 以来、その図面を求め図書館通いが続いた。やっとの思いで見つけた「鳥凧・やっと鴎たちと友だちになれた!」の本。全ページコピーし、宝物でも見つけたような感動に包まれた。コピーを頼りに、試行錯誤を続け何とか出来上がったのが鳥凧第1号。この1号を持ち、1993年庄和町の大会に意気揚々と参加。新潟鳥凧の会の面々も参加していた。ここで本物の「鳥凧」に出会い、驚く。おもわず自分のカモメを背に隠し、遠巻きに見ていたが、勇気を出して話し掛ける。《新潟鳥凧の会》市川さんが親切にアドバイスしてくれ、鳥凧にかける魅力とロマンを語った。
 帰宅後も「鳥凧」のことが頭から離れず、もう一度見たさに新潟県白根の大会に行く。その後「鳥凧の世界展」を見に再び新潟へ。三度目の新潟入りは、白根凧会館一周年記念大会。この時「佐渡凧揚げツアー」の話を聞き即座に同行を許してもらう。このツアーの参加こそが《新潟鳥凧の会 関東支部》の誕生となり、鳥凧人生の始まりとなったのである。・・・この情熱の固まりが、新潟鳥凧の会関東支部長 関宮吉衛氏でした。

 そよ風のような幸福の中で、人生の終点まで、大空に夢を託し進みたいと願って・・・
 関東支部長は今日もまた、江戸川河川敷で凧揚げを楽しんでいるのでありました。
    
ここで一句 >>>>>  にぎり飯 ほおばりながら 凧揚げる
              
・・・おあとがよろしいようで (*-*)/


■大間ゲ−ルカイトフェスタ奮戦記
 1988年の凧揚げは、関東支部から始まった。
 雪にすっぽりと埋まった新潟と違って、各地では正月の松も取れないうちから凧揚げ大会が開かれていた。どの会場も「新潟鳥凧の会関東支部」の会員は楽しく凧揚げをしていた。そんな中、関東支部長の関宮氏は、青森県下北半島の烈風に鳥凧を揚げようと「大間ゲ−ルカイトフェスタ」に挑戦しようとしていた。烈風に耐えられる鳥凧と大間崎の空に鳥凧飛翔の夢を託して・・・
 2月12日夜10時、大間崎への夢と鳥凧の会会員諸氏の期待を背に、袖凧の川上氏と出発。二人はまだ見ぬ地、下北半島大間崎と烈風に少々不安をよぎらせながらも、北に向かって車を走らせた。夜どうし走り、翌朝8時到着。さすがに北の風は冷たいと実感。前夜祭のナマコに感激しつつ、深い眠りにつく。
 翌朝5時半起床、一路大間崎会場へ。眼下に広がるのは正に「津軽海峡冬景色」であった。遥か彼方には、北海道が横たわっていた。日本の凧の会会長茂出木氏も到着、開会式が始まる。そして、烈風吹き荒れる最北端の地で、凧師としての腕を競う命がけの大会は始まった。
 地上では風がない。しかし、丘の上の風力発電の風車は回っている。津軽海峡より吹き込む風は、大間町の斜面を上昇するため地上何mかは風がない。右側上空に絞られた僅かな位置に凧を乗せないと・・・ 審査時間は40分。一刻も早く風を捕らえないとチャンスはない。
 上空には津軽凧が、風を捕らえようと左右に大きく揺れ、長い尾が気になる。風の位置が読めるまで、走る、走る、走る!! 「来た!! 来た!! 来た!! 絶好の風が来た!!」30kgの張力に耐える糸を繰り出しながら、雪の中を一気に走る。糸巻きをみると140mは出ていた。ぐんぐん上昇。関東では考えられない烈風に乗り、尾長鶏は大間崎上空を飛翔。気分は爽快だ。
 審査終了のアナウンスとともに全精力を使い果たしたが、気分爽快、興奮覚めやらずである。審査結果、個人賞として「大間町商工会会長賞」、そして新潟鳥凧の会関東支部にも賞をいただく。





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